「懐古尋道」第2期

「懐古尋道」第2期  投稿 

神話と伝説、そして歴史
 「失われた歴史は伝説となり、伝説は神話となった」(映画「王の帰還」より)
中国神話は一般的に仙人と一体化され、かつ歴史上の人物が神になることが多いです。そのため、中国神話において、人を超えた絶対神はごく少なく、その影も非常に薄いです。かわりに、人と神と仙人とが混然としたカオスをなしている情景が目立っています。この現象は「人神同在」と称すべく、ほかにより妥当な言い方はなさそうです。
この視点から見れば、天地開闢を行った盤古や土で人を造った女媧などは、絶対神の範疇に入るべきだが、しかし、人と神と仙人とが一体化された伏羲、燧人、神のような人物に関しては、そうとう定義し難くなるでしょう。なぜなら、伝説や史料に即して言えば、彼ら自身も人神一体的な存在ですし、その時代も「人神同在」の時代であったと言わざるを得ないからです。
文頭にある「王の帰還」の詞はセリフだが、興味深い歴史観を提示しています。
この観点を中国の神話に還元してみれば、神話や伝説は歴史そのものではないが、しかしその中に歴史の真実が何らかの形で潜んでいることは確実であると言えましょう。
中国の神話伝説に触れて、つねにその混沌たる特異性を感じさせられるが、如何にして、その中から歴史の相対的な真実性を追い求めることができるかが、中国神話研究の大課題です。

   

(絵画:黄帝の治世。ネットより)

さて、「国際文化情報A」(中国語圏)3回目の講義では「中国神話」、4回目の講義では「三皇五帝」について中国語の文章をもとに基本的な知識を学んだうえ、関連の情報を提示しつつ、重要とされる問題についても一緒に検討しました。
2回の授業を踏まえ、講義内容を反芻し、理解を深めていくために、受講生のみなさんは自ら関連の情報を収集、整理し、それぞれ「黄帝の功績」や「黄帝と蚩尤との戦い」をテーマとしたレポートを作成しました。以下に掲載します。



11 件のコメント:

  1. 黄帝の現代とのかかわり   投稿者:L134061 

    ・黄帝とは
    中国の神話・伝説上の皇帝で、「三皇五帝」のなかで、三皇の治世を次いで、五帝の最初の帝で、中華民族の祖とされる。皇帝を表す色が黄色なのは、黄帝に由来する。また、人類文化の創造をしたと言われる。さらには、道家末流によって老子に先立つ開祖とされ、その所説に付会した所が作られ、漢初には「黄老の学」が流行し、後漢以降は神仙教や道教と結んで神格化された。治世は紀元前2510〜紀元前2448年。

    ・蚩尤との戦い
    黄帝が横暴な諸侯を征伐したときに、神農氏の子孫でもある蚩尤だけはきわめて暴虐であったために、征伐できなかった。皇帝が炎帝の子孫を破った後、蚩尤は再び兵をあげて、天下を乱したために、黄帝は諸侯の軍隊を徴収して蚩尤と対決し、激戦の末に黄帝は勝利した。これ以降、諸侯は黄帝を尊び、天子とした。

    ・史記の中に見る黄帝の描かれ方
    史記は中国前漢、武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書であり、正史の第一に数えられる。その史記の中では、黄帝の治世を、従わない者を討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。

    ・現代におけるかかわり
     「五帝」のなかの、黄帝以降の四帝はみな黄帝の子孫とされ、夏・殷・秦・周始祖をはじめ多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。後世になっても、中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、現在も多くの中華民族は黄帝を祖に仰いでいる。清代末期においても、革命派が、黄帝が即位した年を紀元とする「黄帝紀元」という暦を用いて清朝への対抗意識を示した。この黄帝紀元は、辛亥革命が起こり、中華民国湖北軍政府が成立すると清朝の年号を廃止して、黄帝紀元を採用した。各省政府もこれに応じたが、共和政府樹立の議論のなかで、黄帝紀元は帝王在位に基づく紀年法であり、民主共和の精神にそぐわないとの意見が出された。孫文が中華民国臨時大総統の地位につくと、黄帝紀元の使用は停止された。
     黄帝の墓とされる黄陵には、歴代王朝のみならず、中華人民共和国政府も
    毎年使者を送って、中国の現状を報告していると言われている。

    ・まとめ
     黄帝は伝説上の帝王でありながら、文字、音律、暦などさまざまな文化を創造したとされていることなどからも、漢民族の祖としての存在を大きくしているのかなと思った。漢民族の祖として、今も黄陵に使者を送っているとされることなおからも、黄帝がいかに重要視されているかが分かった。黄帝の治世の描かれ方を見ても、「悪いものは征伐し、正しい道を開く」と、わかりやすく人々の支持を得ることができるであろうことが推測できる。しかし、史記のなかでは「従わない者を討ち」という表現も見られることなどから、必ずしも「悪を討つ」というものではないのでないか、と疑問を持った。詳しくは調べることができなかったので、機会があれば調べてみたいと思う。
     調べてみて、やはり「漢民族の祖」として仰がれるには、ただ単に血縁関係のあるものが後の皇帝などにつき、中国の歴史を作ってきたということだけではなく、黄帝の人間性や治世のあり方、またさまざまな人類文化を創造したとされる「人類文化の祖」としての黄帝のあらゆる側面が影響しているのであろうと考えた。

    ・参考資料
    Wikipedia
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B8%9D
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B8%9D%E7%B4%80%E5%85%83
    nifity http://homepage3.nifty.com/kyousen/china/3k5t/3k5t_07.html
    pixiv http://dic.pixiv.net/a/%E9%BB%84%E5%B8%9D
    コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%BB%84%E5%B8%9D-62786


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  2. 黄帝および彼の功績について   投稿者:S141052
                  
    黄帝の姓は公孫、名は軒轅。姓は姫姓とも姒氏とも言われ、また帝鴻氏とも呼ばれる。三皇の最後、または五帝の始めに必ず名前のあがる人物で、一般に中華民族の祖とされている。
    普通、黄帝の容姿に関しては立派な人間の姿でしか現されないが、「みずから雲師となり、竜の姿をしていた(劉向『列仙記』より)」という伝承もあり、龍神としての原型があったのかもしれない。また一説に、『山海経』西山経に出てくる、湯谷に住み「その姿は黄色い袋の如く、赤いことは丹の火のよう、六つの足、四つの翼、混沌として面も目もない」という神・帝江も、帝鴻氏=黄帝の事ではないか、と言われている。黄帝は諸侯の少典の子で、生まれながらにして神霊であり、幼少のころからものいうことができ、また聖徳のすばやいひらめきがあった。
    炎帝との戦いについて、黄帝が天子の位につくにあたって、彼は炎帝(の子孫)と争ったといわれている。炎帝の子孫が諸侯を侵略しようとしたので、諸侯はみな軒轅に帰服した。かくして、軒轅は徳を修め、兵力をととのえ、木・火・土・金・水の五行の気を治め、五穀をうえ、万民を鎮撫して四方の安定をはかった。
    熊、羆、貔、貅、貙、虎に戦闘を教えこんで、炎帝の子孫と坂泉の野に戦い、三回戦ってのち志をとげた。(司馬遷『史記』五帝本紀より)
    蚩尤との戦いについて、公孫軒轅(黄帝)が横暴な諸侯を征伐した時、神農氏の子孫の一人でもある蚩尤だけはきわめて暴虐で、征伐できなかった。黄帝が炎帝の子孫を破った後、蚩尤は再び兵を挙げて天下を乱したため、黄帝は諸侯の軍隊を徴収して蚩尤と対決した。両者の軍は涿鹿の野で戦い、激戦の末、黄帝は蚩尤を捕らえて処刑した。これ以降、諸侯はみな軒轅を尊び、炎帝の子孫にかえて天子とした。そして、軒轅は土徳の天子であったため「黄帝」と号したという。
    黄帝の治世について、によると、黄帝は従わないものがあるとそのたびに征伐し、平定すると立ち去ったという。東は海辺までいたり、丸山(山東省)に登り、岱宗(泰山)にもおよんだ。西は空桐(甘粛省)にいたり、鶏頭山に登った。南は揚子江にいたり、熊山(湖南省)・湘山(湖南省)に登った。北は葷粥(匈奴)をおいはらった。(司馬遷『史記』より)また、諸侯を釜山に集め、符契(割り符)を符合させて違命無きことを確かめたり、涿鹿山下の平地に一時の都を定めたりして、一定の場所に腰を落ち着けることが無かったともいわれている。また、左右の大監を置いて万国を監督させて和同をはかったり、風后・力牧・常先・大鴻の四人を登用して人民を治めさせ、『史記』五帝本紀いわく「日月・星辰・水波・土石・金玉をも徳をもって覆う」 世の中を作り出した。また黄帝は天地山河の鬼神を祭って封禅を行ったが、古来の帝王の行った封禅のうちで、黄帝の行ったものがもっとも盛大であったともいわれている。
    時が過ぎ、黄帝は首山の銅を採って、荊山の麓で鼎を鋳造した。鼎が完成すると、一匹の竜が髯を垂らして迎えに下り、黄帝はそれに乗って昇天した。臣下たちは悉く竜の髯をつかまえ、帝の弓にぶら下がって、帝について昇天しようとしたところ、竜の髯が抜け、弓も落ちてしまったので、臣下たちはついてゆくことができず、帝を仰いで泣き叫んだ(劉向『列仙記』より)と言われている。
     

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  3. 黄帝の功績についての思考
    ――涿鹿の戦いと黄帝、そして現在
                               投稿者:S141072 

     黄帝の天下があった当時、黄帝は中国東の中原地区に居住していた。
    黄帝は発明力に優れ、また文字、暦法、家具、器具、衣服、貨幣を作ったとされている。同時に、炎帝という人も勢力を強め、二人は大合戦を繰り広げた(河北省涿鹿の東南にある阪泉)。炎帝は人々を思う愛情のある人柄であったという。この合戦で勝利した黄帝を討とうとしたのが蚩尤である。結局、蚩尤も黄帝に敗れ死んでしまったが、この後の人々の生活は黄帝によって統合され、保証されたという。
     当時から、合戦は日常茶飯事であったらしく、このことについては権力を争う戦いとして日本の歴史に共通しているなと感じた。しかし当時の日本もまだ石器を使っていた時代であったため、いくら伝説といえども水や火を操るものがいたことに困惑もしたが、やはりこのような人物が存在していたことで、今の中国の文化が作られている。また決定的な違いが、古代の日本では人々を思う権力者は少ないはずだが、古代中国では合戦を行ってはいたがどの首領も人々を愛し幸せな国家を作ろうとしていたのではないかというところである。当時の人々はこれらの首領を信じて国につかえていたに違いない。
     現在の中国はというと、中国共産党の作る国家といっても過言ではないほどの政治が行われている。人々の生活も豊かになったかと思えば中国西部の人々の生活はまだまだ貧しい。また多数民族が共存しているため、各地で衝突や紛争が絶えない。それだけではなく近隣国家との領土権問題も深刻だ。
    たくさんの問題を抱えている中国だが、それには理由があると思う。広大な土地と、多数民族の共生、世界一の人口数などである。今中国が不安定な状態であるのは政治のせいだけではない。各地に住む人々の偏見や感情の違いによってもさまざまな問題が起こるものだ。全世界の人々に共通することだが、もっと人を思いやり尊重しあうことが国家を形成する原点になりうるのではないかと考えた。
     今回は古代中国の歴史について少しふれたが、とても興味深いものであった。古代中国の文明には素晴らしい人が存在していたということが分かった。素晴らしい過去があったことを今一度自覚し、これからすばらしい中華人民共和国ができていくことを願う。

    参考文献:『絵で見る中国の歴史第1巻・原始社会から戦国時代』(監修 岡田英弘 新倉 健 訳)

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  4. 黄帝と蚩尤の戦い       投稿者:E144101
                        
    私は黄帝と蚩尤の戦いについて調べた。
    黄帝は黄河流域で最も知られた部落の首領で、もう一人の有名な首領が、黄帝の兄弟である炎帝だった。長江流域には九黎族という部族がいて、その首領は蚩尤といい、非常に強かった。
    蚩尤は炎帝の領地に進入したので、炎帝は兵を挙げて抵抗したが、蚩尤には敵わず、大敗したのである。そこで炎帝は、黄帝の支配する豚鹿に逃げ込み助けを求めた。黄帝も前々から蚩尤という災い者を消そうと思っていたところなので、各部落の首領と連合し、豚鹿の田野で蚩尤と大決戦を繰り広げた(豚鹿の合戦)。
    蚩尤は優れた武器と勇ましい兵士たちに頼り、勝ち戦を続けたが、その後、黄帝は竜や不思議な獣たちを招いて参戦させた。蚩尤の兵士たちは強いものの、これら神獣たちが加わった黄帝の軍隊を相手にしては、力及ばず逃げていった。
    黄帝がこれら軍隊を率いて敵を追い続けていると、急に空が真っ暗になり、濃い霧が立ち込め、狂風が吹き荒れ、雷が鳴り響き、大雨が降り出して、黄帝の軍隊はそれ以上追い続けることができなくなった。黄帝もこれには負けまいと「日照りの神」に助けを求めたが、蚩尤はまた妖術で大霧を出させ、黄帝の兵士を迷わせた。そこで黄帝は方向を示す北斗星を標しとして、一台の「指南車」を造って軍を導いて霧から脱出させた。黄帝は蚩尤の八十一人の兄弟を相次いでうち殺し、最後は蚩尤を生け捕りにした。
    この蚩尤との戦いから読み取れることは、初めは蚩尤の方が力的に優勢だったとわかる。しかし、蚩尤の力は黄帝の力には及ばないほど、黄帝がとても強かったということがわかる。
    また、黄帝は蚩尤に勝る妖術を持っていて、その力でさえ黄帝の味方だったことから、黄帝は神霊だったといえるだろう。黄帝は宮殿を立てたり、兵車や兵船、五色の衣装など多くの発明や製造をした。このことから黄帝はとても多才な人物だったともいえる。
    蚩尤らとの戦いだけではなく、いろんな場面において強い力を持っていた黄帝は、誰からも手に届くことのない存在であったに違いない。それだけ、黄帝はすごい人物だったのだと感じた。

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  5. 黄帝伝説について  投稿者:S141100 

    “黄帝”とは、古代中国から語り継がれている伝説の皇帝たちである「三皇五帝」のうちの一人である。三皇は神としての、五帝は聖人としての性格を持っているとされる。漢代に司馬遷によって書かれた歴史書、史記によるとこの黄帝は少典の子で、さらに姫水の近くに誕生したことにちなんで姓は姫姓、名は軒轅という。別称として帝鴻氏とも呼ばれる。ある説によると山海経に出てくる怪神・帝鴻と同一のものである。蚩尤を討ち、神農氏に代わって帝となった。中国で皇帝を表す色が黄色なのはこの黄帝が由来である。
    さらにこの黄帝は「道家」では道教の創始者として扱われ、そのためもあって中国医学の祖とされている、現存する中国最古の医学書「黄帝内経素問」「黄帝内経霊枢」も黄帝の著とされて扱われている。また、これらの医学書は現代においても東洋医学の基礎を学ぶ際に古典資料として重宝されている。この黄帝が弟子とともに黄山にやって来た時、美しい景色に感動し、また仙気(仙人の力になる力)が満ちていると感じ、ここで丹(不老長寿の薬)をつくることにした。そして出来上がった薬を飲んで、仙人としての修行が終了し、天に昇ったといわれている。
    黄帝の兄弟である炎帝が黄河流域の有名な部落の首領であったとき、長江流域には蚩尤が首領を務める九黎族という部族がいた。この首領の蚩尤には81人もの兄弟がいて、彼らはいずれも人間の顔と獣の身体を持っており、それぞれに特殊な能力を持っていた。蚩尤はうまくその部隊を率いていた。ある時、蚩尤が炎帝の支配地に侵入することがあった。このとき炎帝は必死で抵抗したが蚩尤の力には遠く及ばなかった。ここで炎帝が黄帝に援助を要請した。黄帝はいずれ蚩尤を討とうと考えていたためにほかの部落の首領とも協力して涿鹿の田野で大決闘を繰り広げた。これは“涿鹿の合戦”と呼ばれている。
    この合戦では蚩尤は、初期は優れた武器と部下をうまく操っていたが、黄帝は龍や不思議な獣たちを戦いに参加させたため、さすがの蚩尤も神獣が加わった黄帝の軍隊には歯が立たなかったため、力及ばず逃げていった。その後、両者は天気の神をも味方につけあって、最終的には黄帝が蚩尤を生け捕りにするという形で戦いは終了した。その後黄帝は蚩尤を死刑としたが、死後の蚩尤が再び災いをもたらすことを恐れ、遠くの山に埋めた。紅葉した葉が赤くなるのはこの蚩尤の血痕であるのだという言い伝えもある。
    黄帝は大変多才で、あらゆるものを発明した。その中には暦・衣服・家・舟・弓矢などがある。

    参考資料
    http://www.suibonso.net/archives/450
    http://kohkosai.com/kaisetu/16-goteidensetu.htm

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  6. 黄帝のこと   投稿者:L133040
     
    黄帝は三皇の最後、五帝の最初に名前があがり、中華民族の祖とされる。姓は公孫、名は軒轅、また帝鴻氏とも呼ばれる。道家思想からは、理想の君主として崇められ、道家の論者を「黄老の徒」と呼ぶことからもそのことがわかる。
     黄帝の関しては、司馬遷の『史記』五帝本紀に記載されている内容からうかがうことができる。従わないものは尽く成敗し、後世の春秋戦国時代に各国が支配した地域全体をすみずみまで統治したとされる。諸侯を釜山に集め、符契を符合させることで違命がないことを確認し、涿鹿山下の平地に都を一時的に定めるなど、腰を落ち着かせる場所を一箇所にとどめておかなかったとも言われている。
     黄帝が次々と諸侯を討つ一方で、蚩尤はなかなか討つことができずにいた。蚩尤は魑魅魍魎を見方につけて戦ったため、苦戦を強いられたのだ。黄帝はこの時、霧で方角を見失わないように、指南車を作ったとされる。策(めとぎ)を作って、暦を操作したとも言われている。この戦いで、戦争に必要な武器(五兵)が作られ、戦後反乱を抑えるために法が作られるようにもなった。蚩尤を倒し皇帝となったあと、中国には都市国家群が形成され始め、それぞれの都市国家の君主が諸侯になった。そして黄帝は諸侯と擬制的な血縁関係を結び統治するようになった。このような過程が開国の帝王、中華民族の始祖としての黄帝のイメージが作られたと考えられる。
     内政では、民衆が土地をめぐって争わないように井田制により農地の境界を明確にしたり、姓を定めて家族の概念を作ったりと善政を行った結果、人々の生活が安定し盗みなどの行為もなくなり、名声を天下に知らしめることになったのです。
     それだけでなく、中国医学の祖としても知られている。漢の時代には、著者不明の医学書は黄帝が書いたものとされ、現代でも中国に現存する最古の医学書であるとされる『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』も黄帝の著作であり、東洋医学の基礎を成す古典として扱われている。このように文化的功績も数多くあるのだ。
     現代の共産党政府はこの功績をたたえて、黄陵に毎年参拝の使者をだしているのだ。

    参考資料:
    ・授業、予習プリント
    ・http://homepage3.nifty.com/kyousen/china/3k5t/3k5t_07.html
    ・http://blogs.yahoo.co.jp/sanokuangxian/34173161.html

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  7. 三皇と黄帝との比較     投稿者:S141078   

    中国の神話では異論があるものの、三皇の時代の後に五帝の時代が続くとされています。今回のレポートでは三皇と黄帝の業績や人物像を比較し、それらについてどのような違いがあるのかを考察したいと思います。
    三皇についても様々な説がありますが、ここでは伏羲・神農・女媧を三皇としてそれぞれの業績や人物像を見ていこうと思います。まずは伏羲について、伏羲は上半身が人間、下半身が蛇のような姿をしており、家畜の飼育や調理法、狩り、武器の製作、婚姻制度、等を教えたとされ、また苗族に伝わる伝承によると、雷公の洪水によって人類が絶滅した際に兄妹である女媧と夫婦になり、人類を存続させたとされています。次に女媧について、女媧も同じく伏羲のような姿をしており、黄土から人間を創造した、天地が崩れかかった世界を修復した、等の伝説が残っています。最後に神農について、神農は頭と四肢以外が透明の体であったとされ、植物を舐めることによって薬効や毒性を検証し人々に示したとされています。また農具を普及させたとも言われています。
    次に黄帝について、黄帝は姫水のほとりで生まれたとされ、阪泉の野で神農氏の子孫を打ち破り、また涿鹿の野で蚩尤を打ち破り、その後中国を始めて支配したとされています。その他にも医学や音楽、数学など様々な分野で業績を残したと言われています。
    三皇と黄帝を比較すると、三皇はいずれも姿が人間と蛇が混ざったような姿であったり、内臓が見えるなど、人間離れした姿をしています。また伝承されている内容も天地を修復した、植物をなめることでその薬効や毒性を判別したなど、おおよそ人間でなしえない、神話としての側面が強いと感じます。
    しかし黄帝の姿は最古のものであっても人間として描かれていて、また伝承されている内容も戦争での勝利や発明といった人間でも成し遂げられるものが中心となっており、三皇についての神話と黄帝の神話の内容を比べると黄帝の方が人間としての側面が明らかに強く出ていると感じます。
    また『春秋』『国語』『史記』といった正式な書物の中にも黄帝の記述があり、特に『史記』は五皇の記述から始まっているということを考えると、黄帝は中国の歴史にとって、神話時代の終わりと人間の時代を始まりを示すような存在ではないのかと感じるようになりました。

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  8. 黄帝の功績について  投稿者:L133015    

     黄帝は三皇の統治を引き継ぎ、中国を治めた五帝最初の皇帝である。彼以降の4人の五帝と、夏、殷、周、秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。また、中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、現在も多くの漢民族は黄帝を先祖に仰いでいる。そして、黄帝紀元という、黄帝即位の年を元年とする暦まで作られ、崇められている。
     黄帝は「涿鹿の戦い」で有名である。即位間もない黄帝はここで蚩尤と争った。蚩尤は、古代中国神話に登場する神であり、三皇五帝のうちの一人、炎帝神農氏の子孫とされている。兵器の発明者とされ、霧をあやつる力があったとも言われている。『路史』によると、羌が姓とされる。兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風、雨、煙、濃霧を巻き起こし、敵を苦しめ、戦いははじめ蚩尤の側が優勢であった。 黄帝は応竜に命じて蚩尤を追撃しようとしたが、風伯と雨師に阻まれた。が、黄帝は自身の娘である魃を呼び寄せ、風伯・雨師の力を封じ蚩尤を討った。また、天帝「兵信神符」が渡されたことがきっかけで勝利したとある。ここで勝利したことにより黄帝は人望を集め、国を治めるに至った。
     さらに黄帝は天文、道家、神僊、五行、雑占、医経、経方、房中など様々な事柄について書物を残している。例えば医経である『黄帝内経』は現存する中国最古の医学書とされている。古くは『鍼経』(しんきょう)9巻と『素問』(そもん)9巻があったとされているが、これら9巻本は散逸して現存せず、現在は王冰(おうひょう)の編纂した『素問』と『霊枢』(れいすう)が元になったものが伝えられている。黄帝が岐伯(きはく)を始め幾人かの学者に日常の疑問を問うたところから『素問』と呼ばれ、問答形式で記述されている。『霊枢』は『鍼経』の別名とされ、『素問』が基礎理論とすると、『霊枢』は実践的、技術的に記述されている。この書における医学のあり方は病気だけを問題にするのではなく、その人の習慣や感情の傾向、食事、またはその人の住んでいる土地、季節などとの関わりから、総合的に診ていた。これは最近、現代医学が目を向けはじめた「生活の質」(QOL)を高めるという発想ときわめて近いものがある。このように現代の人々の生活に深く根ざした考えの基礎を作り出した点は偉大であると言える。

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  9. 五帝と黄帝について   投稿者:S141087   

    黄帝とは、古代中国における伝説の皇帝達、「三皇五帝」のひとり。「三皇」の治世を継ぎ、中国を統治した「五帝」の、最初の帝。姓は姫、名は軒轅。中国の先祖神。中国において、皇帝を表す色が黄色なのは、黄帝を由来としている。
    帝鴻氏とも呼ばれ、山海経に登場する怪神・帝鴻と同一のものとする説もある。蚩尤を討ち、諸侯の人望を集め、神農氏に替わって帝となった。
    また、中国医学の父として、今日でも敬われている。
    五帝といのは、戦国時代以降に創成された五行説に基づくものであるという見方もある。五という数字が大切なのであって五帝が正確にどの王なのかというのはあまり意味がないということかもしれない。
    『史記』によると、黄帝から舜に至る五帝は同じ氏族である姫姓である。二代目の顓頊は黄帝の孫であり、三代目の帝嚳は黄帝の曾孫にあたる。次ぐ尭は帝嚳の子供である。司馬遷が自ら『尚書』には尭以降のことしか記載されないと記述しているように、尭・舜に関する記載はそれ以前のものに比べてはるかに詳しいものとなっている。一方で次ぐ舜は二代目の顓頊から数えること六世を経た孫にあたる。尭とは同じ縁戚関係にありながらも離れている。尭と舜はそれ以前の世代のような直接的な親子関係や、孫・曾孫関係としては表記されていない。
    「五帝本紀」末尾には、五帝は黄帝から舜と禹に至るまでは同じ家計であり、黄帝とその妻の子孫であることを述べている。しかし、それぞれの国号は異なっている。司馬遷はそれぞれの天子がそれぞれに異なった業績や徳をもっていたことを明らかにしたいからではないか、といっている。
    「黄帝を有熊とし、帝顓頊を高陽とし、帝嚳を陶唐とし、帝舜を有虞とし、帝禹を夏后とした。そして夏后は氏を分けて、姓は姒氏である」という。黄帝から舜までは、同じ姓の姫であるが、禹が興した夏は姒氏として独立した氏族となったとする。同じように殷の姓は子であり、周の姓は姫であると述べている。ともかく、黄河流域から渭河流域にかけての諸族は、同じ先祖からなる同族という意識があって、あたらしく王朝をなした夏は、その中から独立した家系を名乗るようになったということではないだろうか。
    五帝の最初である黄帝は、神農(三皇のひとり、人身頭牛)の子孫の徳のなさから、代わって天子になったと「五帝本紀」には記されている。『史記』の構成上、神農の来歴を表すことが必要になるのである。

    参考文献
    ・『中国の歴史01 神話から歴史へ』 著者 宮本一夫
     ・Wikipedia (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B8%9D)
     

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  10. 黄帝とその妻の功績について  投稿者:L133016

    1.黄帝について
     炎帝の死後、彼の子孫が王となって 8代、530年続き、それから黄帝の時代になった。中国史上最も偉大な天帝として、中国五聖君の中でも格が違う。神農とは異父兄弟 とも八代目の子孫であるとも言われている。蚩尤との死闘では、 西王母から遣わされた九天玄女によって霊宝五符を授けられた。
     黄帝は天帝として四つの顔を持ち、東西南北の四方を同時に見守ることが出来、崑崙の地に荘厳な帝都を築いた。

     また、暦、文字、楽器、家屋、衣服、養蚕、医術を始め、多くの功績を残した。陰陽の性器を創造したという説もある。神仏道を学び、宇宙、自然の森羅万象にも造詣が深く、気の真髄を まとめた「黄帝内経」は297巻にも及んだ。しかし、始皇帝の焚書などにより現存するのは、中国最古の 医学書「素問(九巻)」と鍼灸書 「霊柩(九巻)」のみであるという。最期は龍の背にまたがったまま昇天したといわれている。
     本レポートでは、蚩尤との死闘についてまとめる。

    2.蚩尤との戦いについて
     黄帝は炎帝を倒した蚩尤を倒そうと、蚩尤のもとへ向かった。蚩尤の兵たちは強靭な肉体を持っていたが、さすがに獣の姿をした黄帝の兵たちに恐れおののき、一度は退散した。
    そして黄帝がこれら軍隊率いて敵を追い続けていると、急に空が真っ暗になり、濃い霧が立ち込め、狂風が吹き荒れ、雷が鳴り響き、大雨が降り出して、黄帝の軍隊はそれ以上追い続けることができなくなった。実は、蚩尤が“風の神”と“雨の神”を呼んで参戦させたからある。黄帝もこれには負けまいと“日照りの神”に助けを求め、暴風雨でこれに応戦させた。こうして一瞬のうちに、風雨が止み、空は晴れ戻った。
       
    だが蚩尤はまた妖術で大霧を出させ、黄帝の兵士を迷わせた。そこで黄帝は方向を示す北斗星を標しとして、一台の“指南車”を造って軍を導いて霧から脱出させた。こうして多くの激しい戦闘のあげく、黄帝は蚩尤の八十一人の兄弟を相次いでうち殺し、最後は蚩尤を生け捕りにしたのだ。そして黄帝は鎖で蚩尤を縛り、死刑に処したが、死後の蚩尤がまたも害をなすことを恐れ、彼の首と体をそれぞれ互いに遠く離れた場所に埋めたので、蚩尤を縛っていた鎖は荒山に棄てられていて楓の林と化し、一枚一枚の血の色をした赤い紅葉は、かの蚩尤の飛び散った血痕が変わったのだった。
    尤は死んだ後も、その勇ましさは人々に恐れられた。黄帝は蚩尤の画を軍旗に描いた。その目的は、味方の軍隊が勇敢に戦うことを励ますと同時に、従わない敵の部落に恐怖を与えるためでもあった。後に、黄帝は多くの部落の支持を得て、やがてはすべての部落の首領となったのである。
    黄帝は多才であり、宮殿を建造したりしたほか、彼には兵車、兵船や五色の衣裳など多くの発明や製造がある。その妻の縲祖も、発明家であった。本来なら、カイコは野生であって、人々はその使い道を知らなかったが。縲祖が人々に養蚕、糸繰りや機織を教え、これによって、中国に絹織物の文明が生まれたのである。

    3.まとめ
     中国古代の神話や伝説はみな黄帝を推し崇め、後世の人々は黄帝を中華民族の先祖とし、自分たちをその子孫と見なしている。炎帝族と黄帝族は元から近親関係にあったので、のちに両者を融和し、中国人は自らのことを炎黄の子孫と呼んでいる。神話に現れるこの共同の祖先を拝するために、中国人は黄河沿いの陜西省の黄陵県北部にある橋山に“黄帝陵”を建てた。毎年春に、世界各地の中国人の代表がここに集まり、共にこの中華民族の先祖を参拝しているそうだ。
     中国神話の中でも、一番に取り上げられるといっていいほどの黄帝は、人並み外れた力があったことは確かである。現在の世界では考えられないようなことがたくさん起こっている。にもかかわらず、黄帝やその妻が戦いのあと、中国を収めているときに発明したものの数々は現世においても使われ、なくてはならないものとなっている。このように伝説と現実を融合させることで中国人の中国の創造観が成り立っているのである。伝説という面からみると、日本のアマテラスや大国主の神話と比べてみても似ているところがあると考えられる。しかし、現世とのつながりという面では日本にはあまり見られないだろう。このことが中国独特の伝説観である。機会があれば、中国の伝説が現代の中国人の考えにどんな影響を及ぼしているのかを考察してみたい。

    参考文献
    ・国立北京中医薬大学日本校ブログ 2015年5月12日 アクセス
    jbucm.exblog.jp
    ・中国百科ChinaABC「黄帝、蚩尤と戦う」2015年5月12日 アクセス
    http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter16/chapter160108.htm

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  11. 黄帝の功績についての一考察    投稿者:L134024 

    1、黄帝の伝説・功績と蚩尤との戦い

     黄帝の出生については諸説あるが、ある説によると、黄帝の母は附宝で、北極星のまわりを大きな稲妻がめぐるのを見て妊娠し、黄帝を出産したとされている。数千年前、長江や黄河の流域には、数多くの部族が形成されていた。黄帝の姓は姫水の川の辺に生まれたことに因んで「姫」、氏は「軒轅」という。当時の黄河流域の氏族は、姜水の岸であれば姜といったように、居住する土地の名をとって姓氏としていたようである。黄河流域の氏族の中で、隣り合った氏族が互いに結びつくようになり、部族を形成した。その結果、氏族・部族の間に争いごとが生じていたようである。
     他の部族を強大な軍事力により侵略していた蚩尤は、反乱を起こし、黄帝を打ち倒す計画を立てた。蚩尤は大軍を率いてタク鹿に殺到した。「タク鹿の戦い」である。蚩尤は、風を呼び、雨を降らし、霧を発生させる能力を持っており、黄帝の軍隊は霧の中に閉じ込められてしまった。そして蚩尤は神出鬼没に攻撃を加え、黄帝の軍に多大な損害を与えた。これに対して黄帝は、家臣である風后が北斗星の原理を利用して作った指南車を使って何とか霧の中から脱出することに成功する。包囲を脱出した黄帝は応竜を呼び寄せ大雨を降らせようとしたが、蚩尤は風伯と雨師を招き、暴風雨を起こさせた。暴風雨は黄帝の陣地を襲い、黄帝の軍は立っていることもできなくなり四散してしまった。このとき、黄帝の娘バツが戦場に向かっていき、彼女の高熱を発する能力により、暴風雨がやんだ。黄帝はこの機に乗じて、蚩尤の陣地を襲った。この戦いは黄帝の勝利に終わり、蚩尤と同じ姿を持つといわれる81人の兄弟は殺された。
     黄帝は、数多くの重大な発明をし、国民に広く教え広めたとされている。国民に五穀(黍(キビ)、禝(アワ)、菽(マメ)、麦、稲)を教え、中国医学を創始した。特に医学については、現存する中国最古の医学書「黄帝内経素問」、「黄帝内経霊柩」も黄帝の著作とされている。これらの著作は、現代においても東洋医学の基礎を成す古典として扱われている。他にも、文字を広め、貨幣をはじめ、井戸、船、車、弓矢、家屋などを発明した。また、妻のルイ祖は、蚕を飼って絹糸をつくり出した。ルイ祖は、人間にこの養蚕と絹糸をとる技術と、糸から柔らかく華麗な衣装を折る技術を伝授した。

    2、黄帝の伝説・功績と蚩尤との戦いの意義

     黄帝の医学の創始や農業の普及等の文化的功績により、中国はその当時の世界において最先端地域になり、アジア諸国の模範となる国に成り得た。国民意識という点においては、蚩尤との戦いに勝ち、現在の中国に匹敵するほどの広大な領土を統治下に置いたことにより、これほど広い領土を有していながら、中国に居住している人たちに、中国が一つの国であること、また、自分たちが中国人であるとの認識を与える根拠となったといえる。また、黄帝が、数々の文化的な発明をしたこと、後の王朝(夏、殷、周、秦など)の始祖をはじめ多くの諸侯が黄帝の子孫とされていることなどから、現在においても、中国人の先祖として扱われており、黄帝祭りの風習は今でも続いている。このことも中国が面積においても、人口においても大規模な国でありながら、一つの国として国民に認識される所以である。
     このように、中国人にとって黄帝は、文化的功績においても、国民意識を根付かせるという意味においても、とても重要な存在であるといえる。

    参考文献:
    岡田英弘「中国の歴史 第一巻 原子社会から戦国時代」(原書房、1995年)

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